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明治維新の立役者。西郷隆盛 |
西郷隆盛
東京、上野駅から上野公園に向かって階段を上がっていくと、左手で短刀の鞘を押さえ、右手に愛犬を連れた西郷隆盛の銅像に出迎えられる。西郷隆盛といえば、江戸城の無血開城のために立ち回り、江戸の町を戦火から救ったことであまりにも有名。明治政府設立の立役者として活躍し、彼が政府の実権を握っていた明治4年から6年の間には、廃藩置県、徴兵制の施行、身分制度の廃止、宮中の改革、銀行に関する条例の制定、学校・警察の設立、太陽暦の採用など、近代日本の礎が作られた。江戸末期から明治初期にいたる彼の生涯は実に波乱に満ちたものであった。
下級藩士の家に生まれて
文政10年(1827年)12月7日、西郷は薩摩藩(今の鹿児島県)の下級藩士の家に長男として生まれる。幼いころは吉之助と呼ばれ、隆盛と名を変えるのはずっと後のことである。下に弟3人妹3人がおり、祖父母を加えた総勢11人の家族は、極度の貧乏暮らしだったという。体格に恵まれていたため、幼い頃から剣を学んだが、12歳のときに友人と争って右ひじを負傷したため武術の道を断念。以後、学問で身を立てようと決意する。薩摩の郷中教育の二才頭(青年組織のトップ)となり、大久保利通など後に明治維新で活躍する多くの後輩を指導した。16歳になると郡方書役助に出仕、薩摩藩の農政に従事することになる。ところが1849年、薩摩藩を混乱に陥れた事件が発生。藩主である島津斉興の世継問題からいわゆる『お由羅騒動』が起こり、事件に連座し父の友人であった赤山靭負が切腹。この事件に衝撃を受けた西郷は、藩の改革を決意する。
薩摩藩の混乱―奄美隠棲と流島生活
事件をきっかけに島津斉興が隠居し、薩摩藩主は斉興の子の斉彬に変わった。西郷は、尊敬する斉彬の下で藩政改革に励むことになる。斉彬自身も西郷をかわいがり重用するのだが、このことが後の西郷の人生を波乱に満ちたものにする。薩摩藩の内部は藩主斉彬派と、その父斉興派に分かれ対立するようになっていた。この頃から西郷の活躍の舞台は、薩摩藩にとどまらず、日の本全体に移ってゆくことになる。時は江戸末期、国内は尊王派と幕府派にわかれ混乱を極めていた。この頃西郷は、京都を中心に活躍している。ところが1858年、尊敬する斉彬の訃報が西郷に届く。その後藩主についたのは斉興の息がかかる久光の子、忠義。西郷は幕府との軋轢から、奄美大島に隠棲する。隠棲生活は実に3年にも及んだ。久光・忠義の下、大久保利通の推挙もあり一時藩政に復帰するも、久光の上京をめぐる一連の動きが久光からの怒りをかい、西郷は流罪を言い渡される。2年間の囚人生活。国内は明治維新に向けて大きく動いていた。西郷はどんな気持ちで流島での生活を送っていたのであろうか。
変革する時代―明治維新へ
命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり、この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業はなし得られ
後に西郷の残した言葉である。彼自身、官位や財産には無欲であった。欲を捨て、自分を捨て、ただ国家のことだけをひたむきに考えていた。再度薩摩藩に請われて政治の世界に復帰した西郷は、坂本竜馬の説得に応じて、長年の敵同士であった長州藩と会見、薩長同盟を締結。この事件が決め手となり、徳川幕府により大政奉還が行われる。260年間続いた江戸幕府はここに幕を閉じる。しかし、国内の混乱は収まらない。幕府の勢力が強行に抵抗する中、西郷は東征総督府下参謀として江戸に行軍。誰もが、江戸が火の海と化すと思ったそのとき、西郷と幕府重臣である勝海舟との会談により、江戸城が無血開城。戦乱のないまま、江戸城が明け渡される。
西南戦争の悲劇
江戸城開城の頃から健康を害していた西郷は、旧幕府の最後の抵抗である函館・五稜郭の戦いのあと、鹿児島に帰り隠居しようとする。しかし、ここまでの活躍をする西郷を新政府が手放すことはなく、新政府のブレインとして活躍することになる。ここからの彼のはたらきは冒頭に記述したとおりである。わずか数年の間に、次々と改革を断行する。ところが、西郷はまたも派閥争いに巻き込まれることになる。新政府の要人であった大久保利通・岩倉具視と朝鮮半島の政略をめぐって対立。1873年、西郷は政府の職を自ら退き、鹿児島へと帰郷する。鹿児島へ帰郷した彼の元には、彼を慕う多くの士族(旧武士階級)たちが集まってきた。翌年、彼は私学校を設立し、人材の育成に努めていた。ところがその動きが新政府の目には危険人物と映る。政府の策略により、西郷の設立した私学校の生徒が、政府の火薬庫を襲撃、新政府との戦争へと発展する。これが西南戦争である。西郷自身には新政府と対立する気持ちはなかったようだが、自分の弟子たちの暴発を抑えることができずにやむなく兵を挙げ、九州を転戦することになる。このとき、西郷の集めた兵はわずか3万、対する新政府軍は、全精力を対西郷軍に注ぐ。鹿児島県城山に籠もった西郷を囲んだ新政府軍は実に6万人。総攻撃を受けた西郷は腹部と腿に銃弾を受け、この地に自害する。1877年9月24日、西郷隆盛51歳のときであった。
克己心
西郷隆盛の生涯は、彼自身の欲や名誉といったものからはおよそ無縁である。いつも、薩摩藩のため、日本国のためと、己を捨て、公のために尽くしている。公のためには敵を作ることさえも厭わず、そのことが隠棲生活や流島生活、新政府での対立、そして西南戦争の引き金となっている。しかし、彼の活躍がなければ、近代、いや、現代日本の今日の姿はなかったといえるであろう。西南戦争における彼の罪が許されるのは12年後の1889年。そしてその偉大な功績を讃え、その後上野公園の銅像が建設されるのである。
最後に、サナル生たちに西郷隆盛の残した言葉を送る。
総じて人は己に克つをもって成り、自ら愛するをもって敗るるぞ。(南洲翁遺訓)
『克己心』
――自らを捨て、己に克つことを常に考え続けた西郷隆盛の言葉だからこそ、現代を生きる我々の心にも響くのであろう。

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